水酸化物イヲンのメモランダム

雑多なことしかかかない

ベオグラードに行ってました―2019年2月27日の記録―

 あの日、ベオグラードニコラ・テスラ国際空港に降り立ったのは朝5時のことでした。成田からアブダビを経由して足掛け20時間は経ったでしょうか、ターミナルのガラスを透過する陽光は優しくセルビアに朝を告げ知らせにきました。

 欧州はバルカン半島の付け根に位置するセルビア、その都ベオグラードはドナウとサヴァの2つの大河の合流地点に築かれた都市。ケルト、ローマ、ハンガリー、トルコなど、紀元前から現代に至るまで連綿と続いてきた歴史の中で幾たびも支配者が入れ替わっては歴史の波に消えていきました。ユーゴスラヴィアの首都として数度戦火に見舞われもしましたが、当時は比較的安全だと言って差し支えないでしょう。

 さて、私がこの国を訪れたのは実のところ卒論を書くためだったのです。大学生の時分ではお金を貯めるのも一苦労、成果を出せなければ即ち留年の危機と、かなり危ない橋を渡っていたものです。もちろんそれだけではつまらないので色々見て回ってきました。ですがそう意気込んでいた私に、困難は次々と襲い掛かって来たのです……

 空港の周りにも見どころスポットがあります。ベオグラード航空博物館は、旧ユーゴスラヴィアからの航空機を数多く収めた博物館であり、冷戦期の東西陣営両方の機体が一堂に集められた面白い場所です。到着ターミナルから歩いて行けますが、その特異な外観でも探すのは一苦労しました。中でもNATO空爆の時に撃墜されたステルス機の破片は必見です。

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外観

 トラブルと言えば、ここに来る途中引っ張ってきたキャリーケースに違和感を覚えだした時のことです。何か引きずるようなおかしな揺れ、異様に力を掛けている左腕、そして何度も何度も段差に引っかかって音を立てるのです。段差?この道は平らなはず……ふと手を離すとそれはバランスを失ってその場で倒れました。見ると四輪だったはずのキャリーは足を一本失い、旅が始まったばかりだというのにその役目をかなぐり捨ててしまったのです。

 幸いだったのは、空港からのバスがホテルのすぐ前で停まったこと、滞在中はずっとそのホテルに泊まっていたことです。空港からA1バスでスラヴィヤ広場まで300ディナール(約300円)、途中サヴスキ広場で降りると、旧ベオグラード駅の目の前に到着します。

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サヴァマラ広場から見た駅舎(2019年2月)

現在は中世の王ステファン・ネマニャ像が建っている

  早速ホテルにチェックイン!問題があるとすればwi-fiが貧弱すぎて(部屋じゃなくて建物に付き一箇所みたいな?)廊下に出ないと電波通じないくらいひどかったことぐらいでしょうか?幸いホテルにレストランが併設されていたので夜遅く外出するのが億劫でも食べるのには困りませんでした。

 さて、準備を終わらせたら日が天にあるうちに街を見ていきましょう。まずサヴスキ広場からネマニヤ通りを上がってスラヴィヤ広場方面に向かいます。ここは古い建物が並び立つ官庁街とでもいいましょう。鉄道省、外務省、裁判所、国立銀行等等……

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鉄道省の建物

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中でも異彩を放つのはここ、一見すると解体中の建物に見えますが……

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 実は旧防衛省の庁舎なんですね。1999年、コソヴォ紛争の際にNATO(北大西洋条約機構)が空爆したことによって廃墟と化しました。爾来このままに留め置かれているのです。戦争の悲劇を可視化するのにこれほどよい教材はないでしょう。

ところで悲劇的な戦争といったらこの人と出会いました

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ここでクイズです。一体この人は何をしたでしょうか???

ヒントは画像下の年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正解は「オーストリア帝位継承者フランツ・フェルディナント夫妻を狙撃し第一次世界大戦を引き起こした」ガヴリロ・プリンツィプでしたー!

 

 さて、防衛省の角を左手に曲がると聖マルコ聖堂があるタシュマイダン公園、そしてセルビア国会のある一角に到着、ここが永田町みたいなもんなんでしょうか?

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 タシュマイダン公園から進路を南に取り、スラヴィヤ広場に移動します。そこから更に坂を上ると一際大きい教会を発見、ここは聖サヴァ大聖堂、セルビア正教の中心地です。

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 ここには一度は入ってみたかったのですが……入口に佇む物乞いの圧に近付くことも出来ず……(ヘタレ発動)そのままホテルに帰って一日が終了しましたとさ

 

~ 終 わ り ~

 

おまけ:今日のご飯

ベオグラード旧駅舎に入っているレストラン「スタニツァ1884(Ресторан Станица1884)」にて

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グルマンスキ・チェバプ 850ディナール

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セルビア風サラダ 250ディナール

サヴァマラ カフェ&レストラン(Savamala cafe and restaurant)にて

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パスタ・コンポーロ 700ディナール

 

モスタル滞在記―2018年2月22日―

2月22日、滞在先のサライェヴォのホテルで朝食を摂り、バスターミナルへと向かった。

出発時間には間に合い、トラブルもなく出発した。西に向かい市街地を出ると、ほどなく山中の峠道に入った。ダム湖の脇を通り、南に流れるネレトヴァ川沿いを下る。途中のヤブラニッツァ(Jablanica)は第二次世界大戦中のネレトヴァの戦いの舞台となったところだそうだ。

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雄大なネレトヴァ川の自然。豊富な推量が荒々しく谷を削っている

川の水は蒼く、山並みは険しくなっていったが、ある地点を越えたところで植生もガラッと変わった。やがて土地が開けてブドウ畑が広がり、太陽が姿を現した。入国してから初めての陽光だ。

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青々とした芝生に建つモスクは印象的だ

 モスタルのバスターミナルに到着したのは午前11時ごろ。ここは鉄道の駅も併設された市内最大の交通拠点だ。残念なことだが、サライェヴォと比べてもこの街は廃墟の数が多い。

到着して最初に帰りの列車の切符を購入した。値段は11KMでバスより格段に安い。その後満を持して市内中心部へ向かった。橋を渡り最初に目に入ったのは巨大ショッピングモールで意外だ。

中心部から左手に進むと駐車場のような廃墟とラウンドアバウトを挟んだ反対側にスペイン広場なる公園がある。どうやら紛争中にこの地に展開していた国連軍スペイン人部隊の殉職者を悼むためのものらしい。奥にはインターナショナルスクール、さらにサライェヴォの市庁舎に似た外観のギムナジウムがある。

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さらに南に進むと立派なカトリック教会の尖塔、背後の山には巨大な十字架が立っている。ここが境界の街だということをまざまざと見せつけられた。この街はネレトヴァ川を境に右岸をクロアチア勢、左岸をムスリム勢が占めており、街の復興・発展の度合いも違っているようだ。

看板に沿って工事中で地面がむき出しになった道を通り、旧市街地の赤い屋根を過ぎると丸石畳の道になり、「六つの百合」の旗がたなびく櫓をらをくぐると、いつの間にか壮麗なトルコ風のスタリ・モストの上に立っていた。

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角度が急な橋は渡るというよりも登るといったほうが正確だろう。当然自動車も通らないのでのんびりと橋の上から景色を楽しめる。度胸試しにこの橋の上から川に飛び降りる祭があるというが、上から見ると意外と高く見えるので恐ろしい。明らかに水底が近いようなのだが季節によって水量が変わるのだろうか?

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 橋の右岸からは川縁に降りることが出来る。水は澄んで冷たく、たくさんのカモが泳いでいた。下から見る景色もなかなか良い。信じられるか?これ1993年に爆破されたんだぜ……。その時出来たかは分からないが、大きな石の瓦礫が橋げたに転がっていた。

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 昼食の時間になったので、右岸のŠadrvanという店に入った。ここは店員が民族衣装を纏っていい雰囲気だ。ここでは念願のチェバピ(チェバプチッチとも)という伝統料理を注文した。羊肉をハンバーグ状に捏ねて焼いたものを玉葱とともにピタパンで挟んだもので、フライドポテトが添えてあった。これも手で持って食べるような大きさではないのでナイフとフォークを用いざるを得ない。
 ところで旧市街地にはスタリ・モスト以外にも同じ形式の橋がいくつか掛かっていて、滝のような音をたてながら流れている。だがゴミも多く淀みにたまっていたのは世界遺産の街としてはどうなのだろう。景観と言えば街中落書きを多く見かけた。

 例えばサッカーに関するもの。"Redstar Zastava 1984"という文が各所に見られたがどういう意味だろう?そしてもう一つがこれだ。↓

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 なんというか、もう……言及は避ける。

 お土産は市街でマグネットを2つ、ショッピングモールで酒を3瓶(クロアチアのピーヴォ、ラキヤとモスタル産のワイン)に旧ユーゴ地域で定番のお菓子「プラズマPlazma」というビスケットを3袋を購入した。総額でも50KMを超えないと記憶している。

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 さて、サライェヴォに戻るため、4時頃には駅舎に戻ってきた。ここは到着の15分前にならないと入れない。時間になるとガラス戸が開かれたので階段を上がった。ホームの天井は高く、線路は3本引かれていた。

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停まりっ放しの作業車にも落書きされていた。

 ほとんどの人は線路を歩いて横断していた。17時ちょうどにアナウンスが流れ、列車が到着した。車掌に切符を渡すと検印が押され、これで乗車可能になった。車内は日本の特急列車のような見た目だ。緑色で統一され、足置きに読書灯まで備わっていて居心地が良い。

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タルゴという名前の列車

 車窓からの景色は雄大だが、すぐにトンネルや崖に阻まれ、夜の闇の中に消えてしまった。街灯はほぼないので本を読むことしかできなかった。モスタルからサライェヴォまで、コニツ(Konic)、ハジッチ(Hadžići)に停車したが、コニツ駅では原因不詳のまま発進しない状態が続いた。結局遅延の影響でサライェヴォに戻ったのは1時間遅れの午後8時となってしまった。

 モスタルでの時間はこれで終わった。内戦からの復興はまだ道半ばといった印象だ。旧市街の大概の建物はきれいではあったが、その周縁では廃墟の数が目に見えて増えていた。

 この街で生まれた分断の跡は、正直言って分からない。だけれど少なくとも28年前よりその方がずっといいと思う。この旅から3年間でどれだけ変わったのだろうか。

雪・爆音・サライェヴォにて―2018年の旅行記録①―2/19~2/21

 

初めに

 この記事は2018年2月に筆者が訪れたボスニア・ヘルツェゴヴィナでの記憶の断片を書き留めるためのものである。この旅行は筆者にとっては初めてのヨーロッパ訪問であり、加えて初めての単独での海外旅行であった。

 かねてより増幅しつつあった東ヨーロッパ・バルカン地域への関心(このことについては別の機会に書くつもりではある)を大いに刺激された旅であったが、実はきっかけというきっかけはその前の年に大学で開かれていた懇親会だった。確か9月か10月かそこらだったろう。その時の前後関係は詳しく覚えていないが、ゼミの教授の前で「ボスニアに行く!」などと公言したことが実質的な始まりだと確信している。

 公言したからにはやらねばならぬ。これまで留学経験0、本格的な英会話への自信もなく、ついでにともにボスニアに一緒に行こうという奇特な知り合いが皆無な状況の中だったが、そこまでに至る情熱とは何だったのだろう?

 一月後に書き残していた手記を掘り起こしたのでこれを元に書いていく。なおここに記すことはすべて筆者の主観に基づくものであり、投稿する現在の状況に合わないこと、また自らの判断能力の低さを露呈する面も多々あったので読者の皆様方には決してお勧めしないスタイルであることをご容赦願いたい。

 

フライトの日―2月19日

 この日、思いキャリーバッグを引っ張って成田空港へ向かい、午後5時頃に到着した。出発便は午後10時であったが、空いた時間に海外旅行保険の手続きとレンタルwi-fi、ユーロへの両替を準備して搭乗を待った。夕食はカレーうどんだったと記録している。

 経由地はカタールドーハ国際空港だ。夜半の出発だったのですぐに寝ようと思ったところまではよかったが、前後の席から激しい音漏れ攻撃を受けて頭を抱えた。この時ほど耳栓を持ってこないで後悔しなかったことはない!結局夜の闇の中からでることはないままペルシャ湾を越え、ドーハで夜が明けるのを待った。

 

ボスニアの泥を踏む―2月20日

搭乗ゲートからサライェヴォ行の航空機まではシャトルバスでの送迎だ。体感では長い時間揺られていたが、6時間程度でサライェヴォ国際空港に到着する。

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機内から撮影したサライェヴォ国際空港

 かつてボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争時には包囲された市の住民に物資を提供する最後の命綱となった空港は規模も小さく、入国審査に長蛇の列ができていた。この時筆者以外にも5人組の日本人グループがいたことを覚えている。いやはやとんだ物好き集団ではないか?彼らがキオスクでバスのチケットを買えないのを尻目に昼食を摂った。エスプレッソとチーズサンドイッチ、後者を温めなかったのは悪手だったろう。

 現地で両替したのは220€、これが425KM(兌換マルク)となった。その他予備に50€ほど残しておいたがこれが功を奏す結果になった。なぜならタクシーで早速ユーロ払いを使うことになったからだ。その時バスが来なかったので仕方がない。実は最初空港からトンネル博物館まで歩いていこうかとも考えていたが、徒歩でスルプスカ共和国との国境に差し掛かったところで諦めたのだ。ここで10ユーロを惜しむことはない。

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ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とスルプスカ共和国の“国境”

  結局ホテルにチェックインしたのは午後2時頃。漸く一息ついた後、まずは周辺を散策することにした。

これがその時のルートだ。ホテルは市域中部の新市街にある。そこから東へ進み、正教会→高等学校→警察署→国立博物館を越え、地面に咲く"薔薇"を過ぎると議会の建物に到着する。

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ボスニア・ヘルツェゴビナ議会。この建物も戦災に遭い、ギリシャの支援により再建された。

この交差点を北に曲がり、さらに左に曲がった先、二股の道を右手に進んで坂を上っていくと、アヴァズツイストタワーに着く。そこから坂を下ればサライェヴォ中央駅だ。ここはサウジアラビアの支援によって再建された建物だ。

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それなりの大きさの外観だが、天井まで吹き抜けだ。

  駅の下見を兼ねた散歩だったのでここいらで引き返し、夕食をホテルに併設されたレストランで摂った。確かこの日はムサカとモロッコ風のチャイだったが、この時の自分には量が多すぎたようだ。あと舌には合わなかった

ちなみに道路状況はあまりよくない。歩道を歩いているだけでも凸凹やひび割れが目立った。さらに言えば歩行者用信号の切り替わりがとんでもなく早い。体感ではメインストリートでも5秒で点滅が始まってしまうのでダッシュは必須だ。 ではなぜこんなにも早いのだろうか?

雪の中の―2月21日

 この日は一日中雪だった。アザーンが響き渡る中、サライェヴォ市を走るトラムは通勤客でごった返し、何とか席が開いてる車両を探して乗り込んだ。この日の目的は旧市街地を一巡すること。市街地の最奥部で下車し、街巡りを始めた。

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バシュチャルシヤ広場(Baščaršija)の象徴たるセビリ(Sebilj)

 最初に向かったのはラテン橋。ここは1914年6月28日、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺されたまさにその現場である。そのすぐ近くには事件を記念する碑や博物館が並んでいた。旅のノートには前日の日付で日本語のメッセージが書かれていたが、先の日本人グループかは分からないままだ。

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このラテン橋の手前で下手人ガヴリロ・プリンツィプが夫妻を狙撃した。

  次に市街地東部の墓地の周りを歩いた。この墓地には初代大統領/大統領評議会議長アリヤ・イゼトベゴヴィチの墓を見るためである。雪に埋もれていく中でその墓地はきれいに手入れされていたが、その外にある墓石に対しては無頓着であるように思えた。

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サライェヴォの古い墓。奥に見えるドームが初代大統領の墓である。

 あとはひたすら市街地を練り歩いた。ブルサ・ベジスタンの市場からガジ・フスレヴ・ベグのモスク、イエスの聖心大聖堂、生神女誕生大聖堂といった、イスラーム教、正教会カトリックの礼拝施設が一堂に会するというのはなかなか珍しい光景だ。20余年前の内戦を考えると猶の事。

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3つの宗教を象徴する建物が狭い区域に集中している


 お土産にはボスニア式コーヒーを淹れるポットとカップ、それに辞書を買った。今もたまに使っている。昼食はバシュチャルシヤのトルコ料理屋でイスケンダルケバブを食べた。本邦で馴染みのドネルケバブと違うのは、羊肉とバゲットにパプリカソースとヨーグルトをかけたものだ。ソースは濃厚、バゲットは肉汁とソースのうまみがしみこみとてもおいしい。ヨーグルトは舌に残った濃い味をリセットさせて完食まで飽きさせない、よくできた料理だった。

午後は博物館めぐりを始めた。ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館の建物は19世紀にオーストリア施政下で建てられた立派なつくりだ。隣の歴史博物館は内戦期のモノが主で、あまり見ていて気分のいいものではないことを明記しておくにとどめる。

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 この日は最後にバスターミナルへ向かった。翌日に訪れる予定のモスタル行のチケットを事前に購入するためである。でかでかと撮影禁止の看板で威圧してくるアメリカ大使館の脇を通り、21KMでチケットを購入。未だに外から見れるようにティトー像が配置されているサライェヴォ大学のキャンバスを引き返してこの日の外出は終了した。

この日の夕食はチキンリゾットとアラビアコーヒーを頼んだ。相変わらず量が多いんだ。そしてこの日は寝る前に誰かのツイキャス配信を見ていたようだ。

サライェヴォでの観光はこれでおしまい。次はモスタルへのエクスカーションを振り返ります。

Dobrodošli, Hatena Blog!

 初めまして

このブログは私こと水酸化物イヲン(Twitter@Hydroxideminus)があることないことをつらつらと書き連ねるために開設しました。

専攻は歴史学で現在の目標は学芸員資格取得です。興味のあることはバルカン地域・城郭・世界遺産・歴創などです。どれも完全に自己満足の域にとどまっておりましたが、自分の事跡を残さないで逝ってしまうのは癪に障るのでこの場で発散させます。

とりあえず旅行記とか創作設定なんかを垂れ流すことにしようと思います。read数は100とかいってくれれば満足します

 

 プロフィール

 20世紀末生まれ。バルカン半島に異常な執着を持つ人。めんどくさくなるとすぐ物事を投げ出そうとする習性がある

好ましきは同好の士。許されざるは理不尽と常識の押し付け