水酸化物イヲンのメモランダム

雑多なことしかかかない

雪・爆音・サライェヴォにて―2018年の旅行記録①―2/19~2/21

 

初めに

 この記事は2018年2月に筆者が訪れたボスニア・ヘルツェゴヴィナでの記憶の断片を書き留めるためのものである。この旅行は筆者にとっては初めてのヨーロッパ訪問であり、加えて初めての単独での海外旅行であった。

 かねてより増幅しつつあった東ヨーロッパ・バルカン地域への関心(このことについては別の機会に書くつもりではある)を大いに刺激された旅であったが、実はきっかけというきっかけはその前の年に大学で開かれていた懇親会だった。確か9月か10月かそこらだったろう。その時の前後関係は詳しく覚えていないが、ゼミの教授の前で「ボスニアに行く!」などと公言したことが実質的な始まりだと確信している。

 公言したからにはやらねばならぬ。これまで留学経験0、本格的な英会話への自信もなく、ついでにともにボスニアに一緒に行こうという奇特な知り合いが皆無な状況の中だったが、そこまでに至る情熱とは何だったのだろう?

 一月後に書き残していた手記を掘り起こしたのでこれを元に書いていく。なおここに記すことはすべて筆者の主観に基づくものであり、投稿する現在の状況に合わないこと、また自らの判断能力の低さを露呈する面も多々あったので読者の皆様方には決してお勧めしないスタイルであることをご容赦願いたい。

 

フライトの日―2月19日

 この日、思いキャリーバッグを引っ張って成田空港へ向かい、午後5時頃に到着した。出発便は午後10時であったが、空いた時間に海外旅行保険の手続きとレンタルwi-fi、ユーロへの両替を準備して搭乗を待った。夕食はカレーうどんだったと記録している。

 経由地はカタールドーハ国際空港だ。夜半の出発だったのですぐに寝ようと思ったところまではよかったが、前後の席から激しい音漏れ攻撃を受けて頭を抱えた。この時ほど耳栓を持ってこないで後悔しなかったことはない!結局夜の闇の中からでることはないままペルシャ湾を越え、ドーハで夜が明けるのを待った。

 

ボスニアの泥を踏む―2月20日

搭乗ゲートからサライェヴォ行の航空機まではシャトルバスでの送迎だ。体感では長い時間揺られていたが、6時間程度でサライェヴォ国際空港に到着する。

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機内から撮影したサライェヴォ国際空港

 かつてボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争時には包囲された市の住民に物資を提供する最後の命綱となった空港は規模も小さく、入国審査に長蛇の列ができていた。この時筆者以外にも5人組の日本人グループがいたことを覚えている。いやはやとんだ物好き集団ではないか?彼らがキオスクでバスのチケットを買えないのを尻目に昼食を摂った。エスプレッソとチーズサンドイッチ、後者を温めなかったのは悪手だったろう。

 現地で両替したのは220€、これが425KM(兌換マルク)となった。その他予備に50€ほど残しておいたがこれが功を奏す結果になった。なぜならタクシーで早速ユーロ払いを使うことになったからだ。その時バスが来なかったので仕方がない。実は最初空港からトンネル博物館まで歩いていこうかとも考えていたが、徒歩でスルプスカ共和国との国境に差し掛かったところで諦めたのだ。ここで10ユーロを惜しむことはない。

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ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とスルプスカ共和国の“国境”

  結局ホテルにチェックインしたのは午後2時頃。漸く一息ついた後、まずは周辺を散策することにした。

これがその時のルートだ。ホテルは市域中部の新市街にある。そこから東へ進み、正教会→高等学校→警察署→国立博物館を越え、地面に咲く"薔薇"を過ぎると議会の建物に到着する。

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ボスニア・ヘルツェゴビナ議会。この建物も戦災に遭い、ギリシャの支援により再建された。

この交差点を北に曲がり、さらに左に曲がった先、二股の道を右手に進んで坂を上っていくと、アヴァズツイストタワーに着く。そこから坂を下ればサライェヴォ中央駅だ。ここはサウジアラビアの支援によって再建された建物だ。

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それなりの大きさの外観だが、天井まで吹き抜けだ。

  駅の下見を兼ねた散歩だったのでここいらで引き返し、夕食をホテルに併設されたレストランで摂った。確かこの日はムサカとモロッコ風のチャイだったが、この時の自分には量が多すぎたようだ。あと舌には合わなかった

ちなみに道路状況はあまりよくない。歩道を歩いているだけでも凸凹やひび割れが目立った。さらに言えば歩行者用信号の切り替わりがとんでもなく早い。体感ではメインストリートでも5秒で点滅が始まってしまうのでダッシュは必須だ。 ではなぜこんなにも早いのだろうか?

雪の中の―2月21日

 この日は一日中雪だった。アザーンが響き渡る中、サライェヴォ市を走るトラムは通勤客でごった返し、何とか席が開いてる車両を探して乗り込んだ。この日の目的は旧市街地を一巡すること。市街地の最奥部で下車し、街巡りを始めた。

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バシュチャルシヤ広場(Baščaršija)の象徴たるセビリ(Sebilj)

 最初に向かったのはラテン橋。ここは1914年6月28日、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺されたまさにその現場である。そのすぐ近くには事件を記念する碑や博物館が並んでいた。旅のノートには前日の日付で日本語のメッセージが書かれていたが、先の日本人グループかは分からないままだ。

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このラテン橋の手前で下手人ガヴリロ・プリンツィプが夫妻を狙撃した。

  次に市街地東部の墓地の周りを歩いた。この墓地には初代大統領/大統領評議会議長アリヤ・イゼトベゴヴィチの墓を見るためである。雪に埋もれていく中でその墓地はきれいに手入れされていたが、その外にある墓石に対しては無頓着であるように思えた。

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サライェヴォの古い墓。奥に見えるドームが初代大統領の墓である。

 あとはひたすら市街地を練り歩いた。ブルサ・ベジスタンの市場からガジ・フスレヴ・ベグのモスク、イエスの聖心大聖堂、生神女誕生大聖堂といった、イスラーム教、正教会カトリックの礼拝施設が一堂に会するというのはなかなか珍しい光景だ。20余年前の内戦を考えると猶の事。

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3つの宗教を象徴する建物が狭い区域に集中している


 お土産にはボスニア式コーヒーを淹れるポットとカップ、それに辞書を買った。今もたまに使っている。昼食はバシュチャルシヤのトルコ料理屋でイスケンダルケバブを食べた。本邦で馴染みのドネルケバブと違うのは、羊肉とバゲットにパプリカソースとヨーグルトをかけたものだ。ソースは濃厚、バゲットは肉汁とソースのうまみがしみこみとてもおいしい。ヨーグルトは舌に残った濃い味をリセットさせて完食まで飽きさせない、よくできた料理だった。

午後は博物館めぐりを始めた。ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館の建物は19世紀にオーストリア施政下で建てられた立派なつくりだ。隣の歴史博物館は内戦期のモノが主で、あまり見ていて気分のいいものではないことを明記しておくにとどめる。

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 この日は最後にバスターミナルへ向かった。翌日に訪れる予定のモスタル行のチケットを事前に購入するためである。でかでかと撮影禁止の看板で威圧してくるアメリカ大使館の脇を通り、21KMでチケットを購入。未だに外から見れるようにティトー像が配置されているサライェヴォ大学のキャンバスを引き返してこの日の外出は終了した。

この日の夕食はチキンリゾットとアラビアコーヒーを頼んだ。相変わらず量が多いんだ。そしてこの日は寝る前に誰かのツイキャス配信を見ていたようだ。

サライェヴォでの観光はこれでおしまい。次はモスタルへのエクスカーションを振り返ります。