水酸化物イヲンのメモランダム

雑多なことしかかかない

モスタル滞在記―2018年2月22日―

2月22日、滞在先のサライェヴォのホテルで朝食を摂り、バスターミナルへと向かった。

出発時間には間に合い、トラブルもなく出発した。西に向かい市街地を出ると、ほどなく山中の峠道に入った。ダム湖の脇を通り、南に流れるネレトヴァ川沿いを下る。途中のヤブラニッツァ(Jablanica)は第二次世界大戦中のネレトヴァの戦いの舞台となったところだそうだ。

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雄大なネレトヴァ川の自然。豊富な推量が荒々しく谷を削っている

川の水は蒼く、山並みは険しくなっていったが、ある地点を越えたところで植生もガラッと変わった。やがて土地が開けてブドウ畑が広がり、太陽が姿を現した。入国してから初めての陽光だ。

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青々とした芝生に建つモスクは印象的だ

 モスタルのバスターミナルに到着したのは午前11時ごろ。ここは鉄道の駅も併設された市内最大の交通拠点だ。残念なことだが、サライェヴォと比べてもこの街は廃墟の数が多い。

到着して最初に帰りの列車の切符を購入した。値段は11KMでバスより格段に安い。その後満を持して市内中心部へ向かった。橋を渡り最初に目に入ったのは巨大ショッピングモールで意外だ。

中心部から左手に進むと駐車場のような廃墟とラウンドアバウトを挟んだ反対側にスペイン広場なる公園がある。どうやら紛争中にこの地に展開していた国連軍スペイン人部隊の殉職者を悼むためのものらしい。奥にはインターナショナルスクール、さらにサライェヴォの市庁舎に似た外観のギムナジウムがある。

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さらに南に進むと立派なカトリック教会の尖塔、背後の山には巨大な十字架が立っている。ここが境界の街だということをまざまざと見せつけられた。この街はネレトヴァ川を境に右岸をクロアチア勢、左岸をムスリム勢が占めており、街の復興・発展の度合いも違っているようだ。

看板に沿って工事中で地面がむき出しになった道を通り、旧市街地の赤い屋根を過ぎると丸石畳の道になり、「六つの百合」の旗がたなびく櫓をらをくぐると、いつの間にか壮麗なトルコ風のスタリ・モストの上に立っていた。

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角度が急な橋は渡るというよりも登るといったほうが正確だろう。当然自動車も通らないのでのんびりと橋の上から景色を楽しめる。度胸試しにこの橋の上から川に飛び降りる祭があるというが、上から見ると意外と高く見えるので恐ろしい。明らかに水底が近いようなのだが季節によって水量が変わるのだろうか?

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 橋の右岸からは川縁に降りることが出来る。水は澄んで冷たく、たくさんのカモが泳いでいた。下から見る景色もなかなか良い。信じられるか?これ1993年に爆破されたんだぜ……。その時出来たかは分からないが、大きな石の瓦礫が橋げたに転がっていた。

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 昼食の時間になったので、右岸のŠadrvanという店に入った。ここは店員が民族衣装を纏っていい雰囲気だ。ここでは念願のチェバピ(チェバプチッチとも)という伝統料理を注文した。羊肉をハンバーグ状に捏ねて焼いたものを玉葱とともにピタパンで挟んだもので、フライドポテトが添えてあった。これも手で持って食べるような大きさではないのでナイフとフォークを用いざるを得ない。
 ところで旧市街地にはスタリ・モスト以外にも同じ形式の橋がいくつか掛かっていて、滝のような音をたてながら流れている。だがゴミも多く淀みにたまっていたのは世界遺産の街としてはどうなのだろう。景観と言えば街中落書きを多く見かけた。

 例えばサッカーに関するもの。"Redstar Zastava 1984"という文が各所に見られたがどういう意味だろう?そしてもう一つがこれだ。↓

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 なんというか、もう……言及は避ける。

 お土産は市街でマグネットを2つ、ショッピングモールで酒を3瓶(クロアチアのピーヴォ、ラキヤとモスタル産のワイン)に旧ユーゴ地域で定番のお菓子「プラズマPlazma」というビスケットを3袋を購入した。総額でも50KMを超えないと記憶している。

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 さて、サライェヴォに戻るため、4時頃には駅舎に戻ってきた。ここは到着の15分前にならないと入れない。時間になるとガラス戸が開かれたので階段を上がった。ホームの天井は高く、線路は3本引かれていた。

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停まりっ放しの作業車にも落書きされていた。

 ほとんどの人は線路を歩いて横断していた。17時ちょうどにアナウンスが流れ、列車が到着した。車掌に切符を渡すと検印が押され、これで乗車可能になった。車内は日本の特急列車のような見た目だ。緑色で統一され、足置きに読書灯まで備わっていて居心地が良い。

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タルゴという名前の列車

 車窓からの景色は雄大だが、すぐにトンネルや崖に阻まれ、夜の闇の中に消えてしまった。街灯はほぼないので本を読むことしかできなかった。モスタルからサライェヴォまで、コニツ(Konic)、ハジッチ(Hadžići)に停車したが、コニツ駅では原因不詳のまま発進しない状態が続いた。結局遅延の影響でサライェヴォに戻ったのは1時間遅れの午後8時となってしまった。

 モスタルでの時間はこれで終わった。内戦からの復興はまだ道半ばといった印象だ。旧市街の大概の建物はきれいではあったが、その周縁では廃墟の数が目に見えて増えていた。

 この街で生まれた分断の跡は、正直言って分からない。だけれど少なくとも28年前よりその方がずっといいと思う。この旅から3年間でどれだけ変わったのだろうか。